イスに座って海を見る日
「やってみろ」の一言から
「おまえら、いつまでTシャツひらひらしてるんや!!」
コロナ禍で、人が集まるイベントのほとんどが中止や延期に追い込まれていた頃に、かけられた言葉です。1989年から続くTシャツアート展は砂浜美術館を代表するイベントだが、それだけでいいのでだろうか。こんな時だからこそできることがあるはずだ。そう問われた気がしました。「何もしなければ、何も変わらん。失敗してもいいから、とにかくやってみろ」。その言葉に背中を押され2021年に始めたのが「イスに座って海を見る日」です。

みんなで海を見るだけの、なんともないイベント
「海を見るのにステキなイスをもって砂浜美術館にお集まりください。どんなイスが集まるか?みんなで海を見るだけのなんともないイベントです。」
呼びかけはこれだけ。主催者が用意するものはほとんどありません。それぞれが好きな場所にイスを置き、コーヒーを飲む人、本を読む人、ただ波を眺める人と、思い想いに過ごします。何をするかを決めないことが、このイベントの特徴でもあります。
「こんなことに人が来てくれるのか」という不安をよそに、初回は50組約100名が自慢のイスを抱えて砂浜に集まりました。キャンプチェアに木の古い椅子、家のダイニングチェア。並んだイスと、そこに座る人の姿そのものが、その日かぎりの作品になりました。建物を持たない考え方からできた美術館だからこそ、「何かを見せる」だけでなく「この場所で何かを感じてもらう」ことができます。翌年には町長が砂浜で公務を行う「町長室はコチラです。」も実現し、「こんなことができる町って、良くない?」と思える一日になりました。

恵みと災い
イベントは毎年11月3日、文化の日。島国・日本に暮らす私たちにとって、イスに座って海を眺める時間は、ひとつの文化と呼べるのではないでしょうか。そんな思いを込めて、11月3日を「イスに座って海を見る日」としています。
一方で、黒潮町は南海トラフ地震による最大34.4メートルという、日本一の津波浸水想定が出された町でもあります。町の防災の考え方には「恵みと災い」という言葉があります。目の前の穏やかな海は、豊かな恵みをもたらすと同時に、災いももたらしえます。それでも私たちの日常は、その恵みを受け取りつづけることで成り立っています。
イスに座ってじっくり海と向き合うと、「今日は波が穏やかだな」「風が強いな」と、いつもの海の変化に気づきます。「ここで揺れたら、どこへ逃げようか」と、ふと考える人もいるでしょう。海を怖いものとして遠ざけるのではなく、海を好きになり、海をよく知ること。それが、海とともに暮らす町の防災の土台になると思います。砂浜美術館が掲げてきた「人と自然のつきあい方」、そして「ここに住み、ここが好きだと言えること」。この日は、その原点を一人ひとりが考える時間でもあります。

この町から、海を見る文化を
ある参加者が「こうやって座って海を見ているだけで、最高の観光だと思うんですよ」と話してくれたことがあります。その土地を好きになり、よく知ることが本来の観光なら、それは防災にも通じています。海を楽しむことと、海から命を守ることは、別々のことではありません。この考え方を、イスに座って海を見るという小さな文化とともに、この町から発信していきたいと考えています。イベントの日だけでなく、思い立ったときにイスを持って海に来る、そんな風景が当たり前になり、いつか全国の海辺で、11月3日に誰かがイスを置いて海を眺めている、そんな日を想像しています。


