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<前口上>
このインタビューについて
インタビューは1997年2月8日から10日にかけて、大方町の砂浜美術館事務局、入野の浜、魚市場、黒砂糖工場、居酒屋、うどん屋、佐賀町の天日塩工場を会場に行った。
また、参加者が14人と多いため、砂浜美術館の関係者の発言をまとめて”細字”とした。”太字“はインタビュアーの発言であり、中川理(京都工業繊維大学助教授)と花田佳明(建築家、神戸山手女子短期大学助教授)が務めた。
※このインタビューは、1997年に発行した『砂浜美術館ノート』(非売品)からの転用です。地名や肩書きなどは当時のまま修正せずに使用しています。
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Tシャツアート展の最初の作品提供者である写真家の北出博基氏は、札幌芸術の森が編集発行する美術誌『ルア』に、砂浜美術館の紹介としてこんなエッセイを寄稿している。
<取り入れた、あるいは風景にうまく溶け込んでいるという言い方があるが、ここでは風景そのものが作品である。そして、その風景と遊び、楽しむ町の人々の心の中に美術館が確かに存在するのである。>
北出氏はいう。「展示はコミュニケーションだから、来てくれた人にいかに気持ちよく見てもらうかが大切。そう考えるとここの砂浜は展示にぴったりの気持ちのいい場所です。ぼくは、あえて建物をつくらなかった、この町の人たちの頭の柔軟さを誇ってあげたいと思う」。その北出氏が提供した写真作品はアメリカの西海岸の風景だった。太平洋をはさんで、アメリカの風景が大方町の風景に溶け込んだのである。
さて、インタビューではインターネットを、遠く離れた人同士がつながるための道具と紹介されているが、松本敏郎氏の次のエピソードはこれと対極にありながらどこか底流で通じ合う何かを感じるものだ。
松本氏は1991年4月9日に、となりの中村市の浜で1本のガラスビンを拾った。ビンには手紙が入っていた。これは海流ビンと呼ばれ、入野の浜にも鹿児島県などの小学生が出した手紙入りのビンがしばしば届く。
このとき氏が拾ったビンの中の手紙は、日本語以外に英語、アラビア語、中国語など9ヶ国語で書かれていた。そこには「拾った人は、見つけた日にちと場所をこの住所に送ってください」とあった。手紙の主はアメリカのテキサスに住む11歳の少年だった。大西洋に面したテキサスから届いたということは、南米のホーン岬かアフリカの喜望峰をまわったのだろうか。拾った旨の手紙をエアメールで出すと、ほどなくして返事が届いた。
11歳の少年は16歳の高校生になっていた。そこには氏がビンを見つけた最初の日本人であること、ビンは1106個を近所に住むタンカーの船員にたのんで太平洋と大西洋で投げてもらったこと、そして世界30ヶ国から返事が届いたこと、結果を学校のサイエンスフェアで発表してきたことが記されていた。そして「あなたの子どもたちに、ぼくがこれらの計画からいろいろな事を学び、そしてとても楽しんでいることを伝えてください」と結ばれていた。
【『砂浜美術館ノート』(1997年発行・非売品)より】
→(次回)「哲学の浜辺」インタビューを終えて:中川理
→「哲学の浜辺」第4部:インターネットにできないこと
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