このプロジェクトは、砂浜美術館にある一本のメッセージボトルから広がった世界のはなし。
そもそものきっかけは1991年に、当時のスタッフが近くの海岸でメッセージボトルを拾った事にはじまる。瓶の口はロウで固められ水が入らないように工夫されていた。フタを開け、中の手紙を見てみると、9か国語のメッセージと連絡先が書かれていた。これはアメリカのテキサス州ボーモントに住む11歳の少年ブライアンさんが流したものだった。
メッセージには【私の名前はブライアン アカーズ11歳です。私の学校で何年かかかる理科の研究をはじめました。それでは海の潮の流れを研究しています。この紙にいつ、どこでこのボトルを見つけたか書いて送ってください。ぼくもこちらから返事を出します。どうもありがとう。】
ボーモントはメキシコ湾に面した町なので、どうして流れてきたのだろうとみな不思議に思っていた。
手紙を拾ってから約1週間後、スタッフはブライアンさんに手紙を出した。
すぐに返事があり、その手紙にはタンカーで働く近所のおじさんに協力してもらい太平洋側と大西洋側で3年間かけて1106本のボトルを流したことが書かれていた。このやり取りがあったときに彼は16才になっていた。砂浜美術館にある漂流物は「なぜ流れてきたのだろう、どこから来たのだろう」と分からないモノがほとんどだが、このボトルは唯一その事が分かるものだった。ブライアンさんの返事の後、これといったやり取りは無くボトルの物語はいったん終わりを迎えた。
ここからは現在のはなし。
2022年に漂流紀行文学賞が19年ぶりに再開することになり、テーマは【メッセージボトル】に決まった。文学賞再開に合わせて漂流物展も同時開催した。そんな中、ふとあるスタッフが「ブライアンさんはいま何しているのかな。」とつぶやいた。
そこで私たちは思い切って手紙を書く事にした。残念ながらすぐに返事は届かなかった。
手紙を出してからか3ヶ月ほど経ち、さすがに30年以上前の住所なので届かなくても当たり前、ましてや外国とのやりとりなので諦めかけていたとき、一通のエアメールが届いた。送り主は48才になったブライアンさん本人。メールを受け取った企画チームスタッフはすぐさま事務所を飛び出し、チームメンバーを見つけハイタッチをした。この時の興奮は容易に想像できるのではないだろうか。
返信されたメールにはボトルの詳しい説明が長文でつづられ、最後にはこう書かれていた。
【この後のご連絡を楽しみにしております。ご質問やメッセージで不明な点がございましたら、お気軽に連絡してください。ブライアン】
このとき30数年ぶりにボトルが目覚め、新しい砂浜美術館の物語が始まった瞬間でもあった。
これはその時に作成したミッションロゴ。ブライアンさんのプロジェクトに自分たちのメッセージを乗せる形でデザインした。
その後、メールやオンラインで面会を重ね、ブライアンさんを実際に訪ねる事になった。
実は現在彼は実家のボーモントには住んでおらず、ミズーリ州のセントルイスで暮らしていることが分かった。私たちはブライアンさんがどんな町で育ち、ボトルを乗せた船はどんな港から出航したのかまでいちいち気になっていた。当然直接セントルイスには向かわず、ふるさとのボーモントへ行くことを決めた。
私たちは日本から飛行機でテキサスにあるダラスに向かった。そこからレンタカーを借り約1000キロ先のボーモントを目指した。幸いボーモントの実家にはお母さんがまだ暮らしていて、少年ブライアンの沢山の話を聞くことができた。
その後、ついにセントルイスにいる彼のもとへと向かった。
2023年10月9日ついにブライアンさんと対面。48歳になった彼はアメリカの地理学者になっており、このボトルプロジェクトについて詳しく聞くことができた。すると、これまで私たちが知らなかったことも分かってきた。メッセージボトルに入った手紙には、ボトルナンバーが記載されており、私たちが拾ったものはNo.752。このボトルナンバーから流した緯度経度も教えてくれた。
そして、流した日は1987年10月9日。拾ったのは1991年4月9月なので、3年半かけてたどり着いたということだ。さらに、メッセージボトルは30か国・11州から拾った報告の手紙を受けとったそうだ。お気づきかもしれないが、偶然にもブライアンさんと会った日は、彼が36年前にボトルを海に流した日という運命的な対面でもあった。今回このように交流できるということは、今もなおボトルプロジェクトが続いているということだ。そしてそのことにお互い感動し、沢山の話をした。当時の資料をたくさん見せていただいたのち、再会を約束して別れた。
ここで今回のOcean Bottle Projectの旅で感じた事を紹介する。
ひとつは【人の繋がり】、そしてふたつ目は【共感】だ。
【人の繋がり】はやはり、今回のプロジェクトでは多くの人が協力してくれて助けてもらったという感覚が強くある。当然この様々なつながりが無ければブライアンさんとも会う事ができなかっただろうし、現在も連絡を取り合える関係は築けていなかった。
ふたつ目の【共感】は今回の旅で特に大きかったと感じている。今回のプロジェクトを進める中で大なり小なり多くの問題があった。それは先に言った繋がりでクリアできるものもあったし、困難なものもあった。そんな時、プロジェクトに共感し、楽しんでくれる・面白がってくれる新たな繋がりができた。そしてそんな共感の輪が大きくなり、色々な問題をクリアできたように思う。
ここでみなさんに伝えたいことは、人と繋がるだけではだめだし、共感だけでも広がりや推進力は得られないと言うことだ。
人それぞれ様々な繋がりがあるだろう。それは個人だったり地域だったりひとつの町だったりするかもしれない。
相手の事を知り、自分の事を知ってもらう。そこに共感が生まれ、この共感をもって人と繋がることで新たな展開や広がりが期待できる。なおかつ、その繋がりが自己肯定感や幸福感として実感できるのではないかと思う。
最近企画チームのあるスタッフは、誰かと話すとき自分の夢をひとつ話すようになった。
その夢は、ルーブル美術館で漂流物展をする事。
これは余談だが、今回の旅の途中にNASA(アメリカ航空宇宙局)があった。通り道だったのでNASAと繋がり、黒潮町の子どもたちに宇宙の話をしてほしいと思い立ち寄った。
まさかとは思うかもしれないが、実は先日2023年11月22日、NASAのスタッフが訪れ町の子どもたちに宇宙の話をしてくれた。これも共感によって繋がったひとつの縁だ。
最後に、この物語はまだまだ続くわけだが、今回はブライアンさんからのメッセージ映像を添えて終わりにしようと思う。
【『HIRAHIRA TIMES 2024』(非売品)より】
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松下 卓也(まつした たくや)
黒潮町海辺生まれ。
砂浜美術館映像部でケーブルテレビ等を担当。
企画チームリーダーとして事業部をまたいだ活動も担当している。