「哲学の浜辺」第1部をちょっと解説:美術館とはいったいなんだろう

Tシャツアート展

↑Tシャツアート展(入野の浜)

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<前口上>
このインタビューについて

インタビューは1997年2月8日から10日にかけて、大方町の砂浜美術館事務局、入野の浜、魚市場、黒砂糖工場、居酒屋、うどん屋、佐賀町の天日塩工場を会場に行った。

また、参加者が14人と多いため、砂浜美術館の関係者の発言をまとめて”細字”とした。”太字“はインタビュアーの発言であり、中川理(京都工業繊維大学助教授)と花田佳明(建築家、神戸山手女子短期大学助教授)が務めた。

※このインタビューは、1997年に発行した『砂浜美術館ノート』(非売品)からの転用です。地名や肩書きなどは当時のまま修正せずに使用しています。

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砂浜美術館は、ここでいうまでもないが、建物も看板もない美術館である。美術館の歴史はスペインのプラド美術館にはじまるといわれるが、それでさえ1819年というから建物のある美術館の歴史は200年に満たない。もっとも建物のない美術館のほうはさらに遅い。エコミュージアム(生活環境博物館)の第1号ともいわれるスウェーデンのストックホルムにあるスカンセン野外ミュージアムの開館が1891年である。

砂浜美術館の開館は一応1990年4月1日(この日、開館をしているものの、通常は最初のTシャツアート展と砂の彫刻展を行った1989年から「砂浜美術館」は存在していたことになっている)であるから、スカンセンから99年後についに看板さえもない美術館をわれわれはもったことになる。

大方町の入野の浜に来たことがある人は、カメの看板について突っ込みたくなるかもしれない。公園道路の途中にある「ここからは美術館です。館内は人が優先です」と書かれたカメのかたちの看板である。「あれは知らない内に公園の管理者である高知県のほうで勝手に立てちゃった」(畦地和也)ので、かんべんしてほしい。砂浜美術館(入野の浜)は、県からみれば公園なのだった。

県土木事務所がたてた看板

↑県土木事務所がたてた看板。

さて、インタビューの中で、砂浜美術館の人々は哲学の近代の哲学者や芸術家が何十年もかかってようやく手に入れた概念と同じだという指摘がある。哲学も、哲学書を読んで理解するのは消費でしかないから、砂浜美術館の人々は哲学の生産者ということになる。

ただし、ここで現代美術に目を向けると、建物どころか作品すら何が作品で何が作品でないのかわからなくなる。砂浜美術館からの連想で、島をまるごと布に包んだクリストや、大量生産された便器にサインをして出品したデュシャン「泉」(1917年)という便器、いや作品は当時、作品かどうかで論争になったほどで、でも結局は20世紀を代表する芸術作品となったのは周知の事実。

再びインタビューに入る前に、前振りを少しだけ。現代美術の作家である森村泰昌氏は『美術の解剖学講義』の中で、美術とは「未来に向かって振り返ること」であり、それはつまり「自分はこれからどう生きるか」ということだと書いている。すると美術館は、「どう生きるか」のつまった「館」ということになる。

森村氏の作品は、砂浜美術館よりやや遅れて開館した高知県立美術館にある。見るとぶったまげます。

【『砂浜美術館ノート』(1997年発行・非売品)より】

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立ち上げに携わったスタッフとメンバーも入れ替わり、地域内外とさまざまな人が関わりながら活動を継続してきた砂浜美術館。そんな人びとのインタビューやエピソードを交えながら、1997年から2008年までの10年間の活動記録を掲載しています。

ながい旅でした。

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1994年4月18日に発行された漂流物についての冊子です。当時の砂浜美術館学芸員(自称)の想いとセンスがきいた解説は、20年近くが過ぎた今日でも色あせることなく、人の心に響いてきます。

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