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<前口上>
このインタビューについて
インタビューは1997年2月8日から10日にかけて、大方町の砂浜美術館事務局、入野の浜、魚市場、黒砂糖工場、居酒屋、うどん屋、佐賀町の天日塩工場を会場に行った。
また、参加者が14人と多いため、砂浜美術館の関係者の発言をまとめて”細字”とした。”太字“はインタビュアーの発言であり、中川理(京都工業繊維大学助教授)と花田佳明(建築家、神戸山手女子短期大学助教授)が務めた。
※このインタビューは、1997年に発行した『砂浜美術館ノート』(非売品)からの転用です。地名や肩書きなどは当時のまま修正せずに使用しています。
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1955年生まれの武政登氏がまだ小学生の頃の話。友だちと海の近くで遊んでいると、何やら海に段ボールの箱が漂っているのを発見。あの手この手でその段ボールを岸に寄せると、それはロウでしっかりと防水された箱だった。で、開けてびっくり玉手箱。
中から出てきたのは色とりどりのお菓子やタバコ、雑誌、それに手紙などだった。ただし、お菓子もタバコのパッケージも手紙もぜんぶ英語であった。雑誌には女の人のハダカの写真が載っていた。お菓子だけ山分けして、あとは木の茂みの中に隠した。手紙は捨てた。
「いま思うと、きっとベトナム戦争に行った若者にアメリカの家族が送った物資だったんですね。それがどこかで漂流して、黒潮がここまで運んできたんです。手紙は悪いことしたと思う」
さて、インタビューの中で、1972年の県による公園指定以前の話が出てくる。浜田啓氏の『砂浜日記』は、公園以前の入野の浜と松原の様子をいきいきと描き出している。たとえば「秘密球場」と題した話はこんなふうだ。
<小さいころ、松原の中に球場があった。ソフトボールがさかんで、子どもたちでチームをつくっていた。チームはそれぞれ松原の中に秘密球場をもっていた。球場づくりは、雑木や草をぬき、みんなでつくった。自分たちの球場づくりは楽しかった。今では、まぼろしの球場になってしまった。>
30年前、武政少年はベトナム戦争を漂流物によって体験し、浜田少年は球場づくりにいそしんでいた。インタビューの中にある花田佳明氏の言葉を借りるならば、こうした「トレーニング」が後の砂浜美術館的な発想を生み出す原動力になっているのだろう。子どもたちにとってもまた、入野の浜や松原は生活の一部だったのだ。
なお、ここには掲載しなかったが、初日のインタビューでいちばん盛り上がったのが、地元で「くびっちょ」と呼ぶ野鳥のワナの話と、花田氏が設計した家の話だった。前者は「小学校に行くときにしかけ、帰りにとって焼いて食べた」というエピソードで、20年ほど前までは野鳥が子どもたちのオヤツだったのである。後者はその坪数が興味の対象で、17坪という敷地面積に一同驚き「うちは100坪だけどせまい」「うちは200坪あるけどせまい」と、途中からせまいんだか広いんだかわからなくなったのだが。家にはキャッチボールのできる庭があり、釣りをしてから出勤できる。これがふつうの生活。
【『砂浜美術館ノート』(1997年発行・非売品)より】
→「哲学の浜辺」第3部:伝えたいのは考え方です
→「哲学の浜辺」第2部:美しい砂浜が美術館です
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