「哲学の浜辺」第3部をちょっと解説:考え方は伝わるか

会場設営に来ていた建設会社の社長が、漂着した巨大な1本の丸太を砂浜に突き差し「地球棒」とした

↑会場設営に来ていた建設会社の社長が、漂着した巨大な1本の丸太を砂浜に突き差し「地球棒」とした。

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<前口上>
このインタビューについて

インタビューは1997年2月8日から10日にかけて、大方町の砂浜美術館事務局、入野の浜、魚市場、黒砂糖工場、居酒屋、うどん屋、佐賀町の天日塩工場を会場に行った。

また、参加者が14人と多いため、砂浜美術館の関係者の発言をまとめて”細字”とした。”太字“はインタビュアーの発言であり、中川理(京都工業繊維大学助教授)と花田佳明(建築家、神戸山手女子短期大学助教授)が務めた。

※このインタビューは、1997年に発行した『砂浜美術館ノート』(非売品)からの転用です。地名や肩書きなどは当時のまま修正せずに使用しています。

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伝えたいのは考え方。だが、果たして「考え方」はそんなにたやすく伝わるものなのだろうか。

さて、インタビューの第2部で町の振興計画を丸ごと民間シンクタンクに委ねて「考えて」もらう話が出ているが、1億円ばかりがクローズアップされた「ふるさと創生事業」の正式名は「自ら考え実践する地域づくり事業」であり、それは各市町村にオリジナルなまちづくりを行ってもらうためのモチベーションであった。

それがどこでどうなったらオリジナリティのない「日本一の○○」に化けるのか。ここでも「考え方」は伝わっていない。ちなみに大方町が「ふるさと創生」の一環として行ってきた主な事業は、松原再生、砂浜美術館、人材育成、環境美化、特産品の開発、そして町出身の文学者である上林暁の生誕記念行事などである。金額的にはほとんどを松原再生事業に、次が砂浜美術館の約700万円だ。

余談ながら、大方町がふるさと創生資金をこれまで数億円注ぎ込んできた入野松原は国有地(1926年指定)であり、砂浜美術館のギャラリーといもいうべき入野の浜は県立公園の一部(1956年指定)である。国や県におまかせしない発想が評価される。

評価といえば、じつは「考え方」に対する評価の声も少なくはない。そうした砂浜美術館への理解者の声を拾ってみると、地元の高知新聞は1992年6月26日の社説で<美術館や博物館の「箱物」づくりは市町村文化のお題目だが、この「砂浜美術館」は、ともするとそれを地域おこしと短絡する風潮への「健康的なパロディー」のようにも見えてくる。>と紹介している。

その高知新聞の投書欄から。<設立でも開催でもない。この美術館のスタートとは、入野の砂浜の環境をミュージアムととらえる「考え方」の活動の開始だった。(・・・)都会人が、珍しいものを貴重がるのとはわけが違う。見慣れた風景を見つめ直して、新しいものを生み出す、精神の産物だ。>

1991年のシーサイドギャラリーに「地球棒」という作品が出品されている。じつは、これ、大方町とアルゼンチンの浜に丸太をそれぞれ立てて、地球に棒を差すという作品。「アルゼンチンにもきっと立ってますよ」と、浜に漂着した巨大な丸太を1本立てた。立てたのは会場設営に来ていた建設会社の社長。丸太を前にしばらく腕組みをして、そしておもむろにユンボに乗り込むと、器用に丸太を立てた。で、彼は砂浜美術館の関係者にこういったのだ。

「おまんらの考えよることは、こういうことやろ」

【『砂浜美術館ノート』(1997年発行・非売品)より】

「哲学の浜辺」第4部:インターネットにできないこと
「哲学の浜辺」第3部:伝えたいのは考え方です


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砂浜美術館ノートⅡ

砂浜美術館ノートⅡ

立ち上げに携わったスタッフとメンバーも入れ替わり、地域内外とさまざまな人が関わりながら活動を継続してきた砂浜美術館。そんな人びとのインタビューやエピソードを交えながら、1997年から2008年までの10年間の活動記録を掲載しています。

ながい旅でした。

ながい旅でした。

1994年4月18日に発行された漂流物についての冊子です。当時の砂浜美術館学芸員(自称)の想いとセンスがきいた解説は、20年近くが過ぎた今日でも色あせることなく、人の心に響いてきます。

ご興味のある方はコチラへ

ワークショップ:自然と仲良くなろう! 参加者募集中です。

ワークショップ:自然と仲良くなろう!

~自然がもたらす恵みと災いを知る~

ワークショップ:自然と仲良くなろう!

開催日時:2014年9月28日(日)※荒天中止

開催場所:ふるさと総合センター(高知県幡多郡黒潮町入野176-2)

応募締切:2014年9月26日(金)

募集対象:親子(子どもだけでは、ご参加いただけません。)

募集定員:120名

参加費 :無料

黒潮町は、34mという日本一の津波に襲われることが想定された町です。 もちろん、100年のうち99.999%は、自然の恵みあふれる町でもあります。
私たちは、0.001%のリスクを避けるために、
自然の近くで暮らす「お作法」を防災文化として育てています。

自然は恵みを与えるとともに、時に大きな災いももたらします。
このワークショップは、私たちがそうした自然の一員であることを知るプログラムです。

お申込みフォームはこちら


プログラムのご紹介

-自然の恵みを知る-

自然の恵みを知る

ビーチコーミング or 砂像づくり

宝探しのように漂着物を探す。1つ1つ、注意深く見てみると面白い発見があります。ヤシの実・貝がら・ライター・うき・手紙の入ったビン…。ロマンを感じるものから、地球環境を考えるものまで様々。漂流物探しに美しい砂浜にでかけて、漂流物を拾ってみましょう。
砂山作りとは一味違う?楽しい「砂像づくり」。砂を彫る気持ちよさに、子どもも大人もいつの間にか夢中になります。

地域の恵みを食べる

黒潮町でとれたお米を飯ごうを使って炊き、昼食のカレーと一緒に食べましょう。また、黒潮町の特産である黒砂糖の原料サトウキビの丸かじり体験、海水から太陽と風の力だけで作られた天日塩を野菜につけて食べます。

-自然の災いを知る-

ぼうさい授業

ぼうさい授業

地震・津波を題材に、災害時の身の守り方や事前準備の大切さを学びます。その後、実際にフィールドにでて、津波の歴史を知り、太平洋をのぞむ砂浜や避難タワーを訪れ、想定された津波被害を体感します。そのうえで、大きな災いが起こったとき、自分の判断で逃げることのできる力を学習します。


スケジュール

9:30 受付開始(ふるさと総合センター)
10:00 あいさつ
10:10 ビーチコーミング or 砂像づくり
11:30 地域の恵みを食べる+昼食(カレー)
14:00 ぼうさい授業
16:00 終了

※動きやすい服装でご参加ください。

※当日は、直接「ふるさと総合センター」にお越しください(下記地図を参照)。

※小雨の場合は、プラグラムに変更があります。

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ワークショップ:自然と仲良くなろう!
場所:ふるさと総合センター(高知県幡多郡黒潮町入野176-2)

「哲学の浜辺」第3部:伝えたいのは考え方です

沖にはニタリクジラが棲んでいる

↑沖にはニタリクジラが棲んでいる

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<前口上>
このインタビューについて

インタビューは1997年2月8日から10日にかけて、大方町の砂浜美術館事務局、入野の浜、魚市場、黒砂糖工場、居酒屋、うどん屋、佐賀町の天日塩工場を会場に行った。

また、参加者が14人と多いため、砂浜美術館の関係者の発言をまとめて”細字”とした。”太字“はインタビュアーの発言であり、中川理(京都工業繊維大学助教授)と花田佳明(建築家、神戸山手女子短期大学助教授)が務めた。

※このインタビューは、1997年に発行した『砂浜美術館ノート』(非売品)からの転用です。地名や肩書きなどは当時のまま修正せずに使用しています。

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結局、砂浜美術館はあるとき突然できたものではなくて、
大方町に元からあった地域文化が、砂浜美術館というかたちになって立ち上がっただけではないかとぼくは考えています。

大方町に来て、みなさんと話していてわかるのは、おおらかというか、いい意味でのアバウトさですね。いまはどこの町村でも余裕が感じられませんが、余裕がないところからは砂浜美術館的な発想は出ようがない。

そんなことはなくて大方町も深刻なんです(笑)。でも、深刻ぶったところで問題の解決にはつながらないですから。

見ていて無理を感じないんですよ。自然体でいられるということは、思想があるからだと思います。しかし、それがどういう思想なんだとたずねられても説明しづらいかもしれませんが。

じつは、当のぼくたちも気づいていないことが多いんです。

思想とは別の方向で説明すると、前史がしっかりしていたんだと思います。結局、砂浜美術館はあるとき突然できたものではなくて、大方町に元からあった地域文化が、砂浜美術館というかたちになって立ち上がっただけではないかとぼくは考えています。

砂浜美術館という考え方も、ぼくたちがつくろうとしてできたものではありません。偶然の人と人の出会いがきっかけで、そうした出会いを楽しみにながら、さらに出会った者同士がもっと楽しくなるために動いた結果こうなったのですから。

いま、偶然といわれたけど、かなり必然な出会いだったと思います。だからこそうまくやってこられたのではないでしょうか。そう考えると、松本さんと畦地さんがデザイナーの梅原さんにはじめて出会った1989年5月20日という日は、きっとあらかじめ歴史に設定された時限爆弾だったのですよ。ところで、最初の話に戻りますが、砂浜美術館のものの見方や考え方を伝えていく上でたいへんなことはどんなことですか。

Tシャツアート展などの展示会も考え方を伝えるために行ってきたわけですが、やはりどこかでイベントと一緒にされてしまいます。一度、町の議員から「Tシャツ美術館」とまちがわれたこともありました。また、「次の砂浜美術館はいつですか」という問い合わせが、いまでも事務局に入ります。ぼくたちの力不足もありますが、砂浜美術館は考え方なんだといくら説明しても、まだまだイベントとしてしか理解されていないのですね。

理解されないといえば、Tシャツアート展はある意味で今日的な環境アートなのだけど、少し前まではシーサイドギャラリー・夏の中で盆踊りと一緒に開かれていました。違和感があるというか、砂浜美術館のコンセプトと照らし合わせてどうなんだろうと思います。

盆踊りは町からの補助事業だから、分けられなかったという経緯もありますが。

それは考え方さえできてしまえば、あとは、何があってもいいやと受け入れる余裕が生まれたのかもしれませんね。

盆踊りも作品と考えましょう(笑)。

それで「もうやめようぜ」となったわけです。
高知新聞に「イベントは今回限り」とコメントを載せて、
1994年をさいごに夏のシーサイドギャラリーのような大規模なイベントは中止しました。

だけど、ぼくたちはイベントそのものを否定しているわけではありません。でもイベントをすることが目的になっては、やはりだめなのだと思います。イベントは、所詮、数の論理です。予算はいくらか、お客さんは何人来たか。それに毎年のように内容のレベルアップが必要。去年と同じレベルを維持したつもりでも、お客さんはそうは見てくれない。去年と同じなら「レベルが落ちた」といわれる。

数や規模を追うときりがありません。

砂浜美術館も、1994年までは展示会の数や規模が、年々、過剰になっていったんです。お金も労力もかなりかけました。当時は、実行委員会の中に総務部をはじめ、砂像部、自然部といった部があったくらいですから。砂像部長だった武政登さんは、早朝、出勤前に砂浜で砂像を彫って、仕事の途中で抜け出してまた彫って、仕事が終わってさらに彫って・・・。それでも間に合わないんです。

やりたいからやっているではなく、そうなるとやらなくてはいけないという悪しき状態ですね。

それで「もうやめようぜ」となったわけです。高知新聞に「イベントは今回限り」とコメントを載せて、1994年をさいごに夏のシーサイドギャラリーのような大規模なイベントは中止しました。砂の彫刻展は中止し、Tシャツアート展は5月の連休期間にずらしました。ここでぼくたちがいいたかったのは、今後は、大勢の人を集めることを目的とするイベント的な開催はせず、砂浜美術館の考え方を伝えるための企画の展開を図っていきたいということです。

思いきりよくやめられたのも、考え方があったからですね。

そうですね。考え方がなかったら全部やめていたと思う。

じっさい、ぼくには「やめても、考え方は残るけん」という思いがどこかにありました。結局、「もうやめようぜ」の話し合いを経て残ったのは、自分たちの身の丈に合った展示会ばかりでした。夏に砂像が作れなくなった武政登さんは、1995年には鹿児島県加世田市の「砂の祭典」の砂像彫刻コンクールに参加して最優秀賞を取っています。

サンドクラフト全国大会(95年、鹿児島県加世田市)で砂像をつくる武政氏、この作品で見事優勝を果たした。

↑サンドクラフト全国大会(95年、鹿児島県加世田市)で砂像をつくる武政氏、この作品で見事優勝を果たした。

ところで、今後はどんな展開を考えていますか。

最近、考え方がストレートに伝わるような小さな事業があってもいいなと思うようになりました。それも生活に密着した、エコツーリズムのように地元の飲食店や農家と一緒にやるようなものです。

逆にというとストレートに伝わらないもどかしさがあるのですね。

たとえばTシャツアート展でいうと、応募した作品は波打ち際に打った杭にロープを張ってそこから吊るしていますから、杭ごと海に流されてしまうことがときどきあるんです。そんなとき、ぼくたちは海を漂うTシャツも作品に見えてしまいます。だけど出品者から見たら、それは単なる事故なんです(笑)。

そこのところはむずかしいですね。単にプリントしたTシャツが欲しくて応募する人だっているわけですし。

砂浜美術館での作品展示は常に天気との戦いでもある。悪天候ともなればTシャツが流されることも・・・

↑砂浜美術館での作品展示は常に天気との戦いでもある。悪天候ともなればTシャツが流されることも・・・

4キロの砂浜やクジラが棲める海を、
もしも人工的につくろうとしたら国家予算を投じても
できないかもしれない。

環境という視点から考えると、Tシャツアート展は入野の浜の歴史や自然に直接的な関心を呼び起こすものではありません。できればそこまで踏み込みたいのですが。

環境のことを外側に出していくとなると、町が内側で抱える問題まで情報発信していくことなります。

そこまでできると面白いですね。というのは、砂浜美術館の考え方は、たぶん、人間が生きていく上で大切なことをいっているのだと思うのです。じっさい、ものの見方が変わると大方町はすごい町なんだと思えてきます。考えてみれば、ドーム球場はないけれど、長さ4キロメートルの砂浜はあるし、沖にはクジラも泳いでいる。ついついドーム球場のほうに魅力を感じてしまうけれど、でも4キロの砂浜やクジラが棲める海を、もしも人工的につくろうとしたら国家予算を投じてもできないかもしれない。

そうしたことを、砂浜美術館の、同じものでも見方を変えると別の姿が見えてくるというアイディアを使っていかにお説教くさくなく外に向かって情報発信していけるかですね

【『砂浜美術館ノート』(1997年発行・非売品)より】

「哲学の浜辺」第3部をちょっと解説:考え方は伝わるか


「哲学の浜辺」第2部をちょっと解説:入野の浜と子どもたち


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砂浜美術館ノートⅡ

砂浜美術館ノートⅡ

立ち上げに携わったスタッフとメンバーも入れ替わり、地域内外とさまざまな人が関わりながら活動を継続してきた砂浜美術館。そんな人びとのインタビューやエピソードを交えながら、1997年から2008年までの10年間の活動記録を掲載しています。

ながい旅でした。

ながい旅でした。

1994年4月18日に発行された漂流物についての冊子です。当時の砂浜美術館学芸員(自称)の想いとセンスがきいた解説は、20年近くが過ぎた今日でも色あせることなく、人の心に響いてきます。

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潮風のキルト展、はじまりの話

今年で20年目を迎える「潮風のキルト展」

↑今年で20年目を迎える「潮風のキルト展」

初めの始まり

「何か、やりようぞ」Tシャツアート展の隣、松林にキルトが揺れている。地元パッチワークキルトサークル「あずさ」のメンバーたちが展示したものだ。松原で木漏れ日に照らされるキルト・・・いい感じ

そんなお試し展示から、「Tシャツは砂浜、キルトは松林が似合うのでは」の提案が生まれ、第1回のキルト展が始まることになる。しかし、「お金は」「審査員は」「展示方法は」「賞は」などなど押し問題。とにもかくにも、「あずさ」と地元の工芸グループ「自然工房」と「砂浜美術館」の共同作業が始まった。

「金がなければ、知恵を出せ」有名な審査員が呼べなければ、「町の子どもに選んでもらったら」の声。子どもたちの目でキルトの世界をみてもらうもの良いのでは。しかし、それではキルターの人たちが納得しないか・・・。いや、ナンバーワンではないオンリーワンでいこう。これが砂浜美術館流。喧々諤々の結果、「こどもたちが選ぶ・潮風のキルトコンテスト」に決定した。

展示は屋外、雨の場合のみ屋内。展示方法はロープがある、松林がある。朝、展示。夕方、取り込み。これ、洗濯物と同じ。これを繰り返す。大丈夫ですか?秋の天気は変わりやすいといいますが。しかしこの方法が、今では当たり前となっている。

さて、「お金、お金」「賞、賞」。お金は、砂浜美術館のやりくりで、何とかOK。また、お客さんに協力金300円をお願いして、500人が協力してくれたら15万円。よし、何とかなるだろう。で、初めの始まりです。1995年、砂浜美術館誕生から6年目のことでした。

ちなみに、キルト展の募集チラシは、地元人、Iターンの人、事務局の協力で、第1回から自前の作成を続けている。

町内の小学校を訪問する恵さん(2006年)

↑町内の小学校を訪問する恵さん(2006年)

出会い・・・小林恵さん

僕は全く知らなかったのです、「小林恵さん」のことを。当時のチラシから紹介を引用すると「小林恵(ライフスタイルジャーナリスト)1964年渡米。1969年ニューヨークでデザイン会社を作り、1982年フリーランスとして独立。アメリカンライフを専門に執筆、企画。日米草の根文化交流協会ディレクター。ミセスキルト大賞審査委員。ニューヨーク在住・・・」。審査員として「恵さん」の名前があがった当時、事務局を担当していた水野聖子の父が、恵さんとつながりがあるということで打診してもらった。謝礼はこちらの言値、しかもニューヨーク在住。にもかかわらず、OKとのお返事。

そうして2002年「第8回潮風のキルト展」の審査員として、恵さんが砂浜美術館に来てくださった。初めて会った時から違和感はなかった。しかし、まさか、それ以来10年以上の付き合いになるとは!

恵さんとのつながりで、キルト展には驚くべき出来事が次々に“寄って”来た。NHKの「日曜美術館」のスタッフが取材に来たのである。キルト展の全国放送(少し場違いな感じもあったかな)。さらに、NHKの論説委員の田村さんも取材に来られ、『美術館のあり方』で砂浜美術館が紹介された。

潮風のキルト展会場で開催した恵さんの講演に聞き入るお客さん

↑潮風のキルト展会場で開催した恵さんの講演に聞き入るお客さん

こうした中、恵さんはキルト教本「子どもたちに教えるキルト指導要綱」を作成し、町内の保育所や学校などにプレゼント。ここには、子どもたちから大人までがキルトを楽しむ方法が伝授されている。

その後の恵さんは、会場で講演をしたり学校に行ったりと、町内を駆け巡った。そんなふうに、60代から70代の自分の時間を「潮風のキルト展」に使っていただいた恵さんの想いを、私たちが十分に受けとめ生かしているのかと、いつもちょっぴり不安に思っています。(続く)【『砂浜美術館ノートⅡ』(2012年発行)より一部掲載】

続きは『砂浜美術館ノートⅡ』でどうぞ!

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≪語り手≫
浜田 啓(はまだ ひらく)

砂浜美術館informal学芸員(*1)で、砂浜美術館立ち上げメンバーの一人。
砂浜美術館のメインステージ“入野の浜”を10年間撮り続けた写真集『砂浜便り』を出版。砂浜美術館のパンフレットに使用されている写真は浜田氏のものである。

●註

*1 informal学芸員 以前、名刺に「砂浜美術館学芸員」と入れたところ、「学芸員は国家資格」と指摘され、以来informarl付き。(同じくinformal学芸員の一人である松本氏談)

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砂浜美術館ノートⅡ

砂浜美術館ノートⅡ

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ながい旅でした。

ながい旅でした。

1994年4月18日に発行された漂流物についての冊子です。当時の砂浜美術館学芸員(自称)の想いとセンスがきいた解説は、20年近くが過ぎた今日でも色あせることなく、人の心に響いてきます。

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第20回潮風のキルト展、作品募集について

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